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前川喜平の「奇兵隊、前へ!」(その11)

 義務教育費国庫負担金を、三位一体改革の補助金削減の対象にするのは間違っている。
 義務教育の無償制と機会均等を保障するための財源保障制度である義務教育費国庫負担制度と地方財政の財政力格差を是正するための財政調整制度である地方交付税制度の、それぞれの役割と必要性について考えるためには、昭和15年の改革の意味を考えることが有意義である。(番号は前回からの続き)

(5)義務教育費国庫負担法(昭和15年) … 2分の1国庫負担制度の成立と教職員給与財源の安定化
 昭和初期におけるたび重なる経済恐慌とその後の軍需景気は、地方間の富の偏在と市町村間の財政力の格差を著しく拡大させた。財政力格差は教育費支出水準の格差として表れた。ある研究によれば、昭和3(1928)年当時、児童1人当たりの小学校費は、東京府が最高で65円81銭、沖縄県が最低で17円24銭だったとされる。このような教育費支出水準の格差は、財政力の弱い町村において、教員給与の支払い延滞や強制寄付による割引支給という形での教員給与の削減を急速に増大させた。
 このような状況に対処するため、国は昭和7(1932)年、市町村財政の窮迫の緩和と教員俸給不払いの防止を目的として、市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法を制定し、毎年一定額(当初1200万円)を市町村に補助することとした。義務教育費国庫負担金の配分においても、市町村の財政力に応じた配分がなされていたが、この臨時国庫補助金の配分にあたっては、財政力の弱い市町村に対しより重点的な配分を行った。このような措置は、義務教育費に対する財源保障というよりは、地方間の財政格差に対する義務教育費を通じた財源調整の仕組みを導入したものと見ることができる。
 しかし、このような方法によっては、①義務教育費の財源保障、②市町村間の財政調整という2つの目的のいずれをも十分に達することはできなかった。
 このため、義務教育費の財源保障のためには、市町村負担の制度そのものを改めて、教職員給与費を府県と国に分担させるとともに、市町村間の財政力格差の是正のためには一般的な財政調整制度を設けるべきだという意見が、教育関係者や地方財政関係者から強く主張されるようになった。
 こうした考え方のもとに、昭和15(1940)年、義務教育の教員給与費(当初は俸給のみ)を府県の負担とし、その2分の1を国庫負担とする義務教育費国庫負担法が制定されるとともに、市町村間の財政力格差を是正するため、本格的な地方財政調整制度として地方分与税が創設されるに至ったのである。
 さらに昭和18年には、俸給以外の給与(年功加俸、特別加俸、賞与、死亡賜金)と赴任旅費も市町村負担から道府県負担に移され、国庫負担の対象に追加された。
 このような義務教育費国庫負担法の制定に至る歴史は、義務教育費国庫負担制度の本来の機能は義務教育のための安定的な財源を保障するという財源保障機能であり、地方間の財政力格差を是正するという地方財政の財政調整機能をこの制度に求めることは適当ではなく、別途一般的な財政調整制度を設ける必要があったという事実を示している。
 昭和15年以前の義務教育費国庫負担制度が、現在の地方交付税につながる財政調整制度の源流として論じられることがあるが、それは上に見たように義務教育費国庫負担金が市町村の財政力に応じて交付され、義務教育費の財源保障の形を借りて市町村間の財政力格差を是正する効果を持っていたからである。昭和15年の改革は、義務教育費国庫負担金から財政調整の機能を分離して地方分与税制度を作るとともに、義務教育費国庫負担金を義務教育の財源保障制度として純化したところに大きな意味がある。この新国庫負担制度は、市町村からは「全額国庫負担」の実現として歓迎された。戦前の府県は国の出先機関だったから、国2分の1・府県2分の1の負担は、実は広い意味での国の内部における負担関係であって、市町村から見れば、国が全額を負担することによって、市町村を義務教育教員給与費負担から完全に解放したことを意味するものだったのである。

(6)義務教育費国庫負担法(昭和28年) … 義務教育費に対する国による財源保障制度の必要性を再確認
 戦後、わが国は国も地方も極めて厳しい財政状況の下で、新制中学校を創設して義務教育の年限を3年延長するという財政的には無謀ともいえる改革を行った。新制中学校の校舎建設に当たっては、予定された国庫支出が行われなかった事情などにより、各市町村において増税や強制寄付などを余儀なくされ、その責任を問われた市町村長の辞職や自殺が相次ぐという事態も生じた。しかし、それでも何とか新制中学校制度を出発することができたのは、教員給与費についてはすでに国庫負担制度が存在しており、ドッジ・ラインの下での定員定額制(昭和24年度)による抑制措置の影響はあったものの、新制中学校に教職員を配置するための財源はともかくも保障されていたことに負うところが大きいと考えられる。
 しかし、昭和25(1950)年には、前年のシャウプ勧告に基づいて、義務教育費国庫負担法が廃止され、新たに設けられた地方財政平衡交付金に吸収されてしまった。このとき昭和25年度予算において地方財政平衡交付金に吸収された補助金・負担金305億円のうち、義務教育費国庫負担金は247億円(81%)を占めていた。義務教育費国庫負担金が廃止されなければ地方財政平衡交付金を創設することはできなかったといって過言ではない。平成17年の現在、義務教育費国庫負担金を主な財源として地方への税源移譲が行われようとしているのは、この昭和25年の出来事の再現のように感じられる。
 義務教育費国庫負担制度の廃止にあたり、義務教育の財源を確保するため、地方財政平衡交付金制度の中で義務教育費として算定した額は義務教育費として支出しなければならないとする標準義務教育費の確保に関する法律案が閣議決定されたが、総司令部の反対のため国会上程にはいたらなかった。
 義務教育費国庫負担制度の廃止により、義務教育費の教職員給与費はすべて地方の一般財源で賄われることになったが、その結果、義務教育におけるナショナル・ミニマムの水準の確保が困難になり、(1)教育条件の全国的な低下、(2)地域間格差の拡大という事態が生じた。教育条件の低下については、たとえば小学校1学級あたりの教員数が、昭和24年度の1・22人から26年度の1・20人に減少したといわれる。地域間格差については、たとえば昭和27(1952)年度の児童1人あたりの小学校費における東京と茨城の格差が100対53であったといわれる。このため、教育界からは義務教育費国庫負担制度の廃止直後からこの制度の復活を求める声が大きかった。
 また、義務教育の教職員給与費が地方財政に与える圧迫も大きくなり、都道府県の一般財源に対する義務教育教職員給与費の割合は、昭和25(1950)年度の38%から昭和27(1952)年度の44%へと上昇した。そのため、昭和26(1951)年6月には全国知事会議において義務教育費国庫負担法復活を求める決議が行われるなど、地方行政関係者からの声も高まっていった。
 このような教育関係者や地方行政関係者からの要望を背景に、昭和27(1952)年3月に当時の文部省は、標準的な義務教育費のうち各地方団体の財政力に応じた負担分を差し引いた不足分を国庫負担するという内容の義務教育費国庫負担法案を策定した。その後、政府・与党の中での検討・調整を経て、昭和27(1952)年8月、義務教育費国庫負担法が成立し、翌昭和28(1953)年から施行された。
 このようにして制定された新たな義務教育費国庫負担法は、旧国庫負担法の仕組みを基本的に引き継ぐものであったが、給与費等の負担対象職員に事務職員が加えられるとともに、教材費も国庫負担(当初は一部負担、昭和33(1958)年度からは2分の1負担)の対象費目とされた。事務職員が国庫負担に加えられたのは、事務職員が教員と同様学校運営を支える基幹的な職員であり、すでに昭和23(1948)年の市町村立学校職員給与負担法によりその給与費等が都道府県の負担とされていたためである。また、教材費が国庫負担の対象とされたのは、当時問題とされていたPTAの寄付金等の形での教材費の家計負担への転嫁を解消する必要があったためである。
 このような義務教育費国庫負担法の廃止から復活制定に至る歴史は、地方間の一般的な財政調整制度によって義務教育費を確保することは困難であり、義務教育の水準確保と地域間の機会均等を保障するためには義務教育費に目的を特定した国による財源保障制度が必要であったという事実を示している。
 地方財政平衡交付金制度は、義務教育の財源保障機能と一般的な財政調整機能とを混合させたものであり、これら2つの機能を同時に果たすことが求められたという意味では、昭和15年以前の義務教育費国庫負担制度に類似するものだったと考えることができる。しかし、これら2つの機能を同時に求めることの不合理さはたちまちのうちにあらわになった。その結果、改めて義務教育の財源保障制度として、義務教育費国庫負担制度を確立することになったのである。もう一方の財政調整制度の方は、昭和29(1954)年に地方交付税制度として導入された。
 総務省が現在進めようとしている義務教育費国庫負担金全額の税源移譲による一般財源化は、(1)義務教育の財源保障機能と(2)地方間の財政調整機能とをもう一度混合させ、地方交付税制度の中にこれら2つの機能を同時に求めようとする試みである。それはすでに2度実施し、2度失敗しているものなのだ。

(7)全額国庫負担制度の構想
 義務教育の教職員給与費について、その全額を国庫負担するという構想は、戦前の民政党の政策の中にも見られたものであるが、戦後も2度にわたって浮上している。
 このような構想が戦後初めて発表されたのは、昭和21(1946)年1月、前田多門文部大臣の下で田中耕太郎学校教育局長を中心に策定された地方教育行政機構刷新要綱においてである。この構想は、フランス、イタリアの制度にならい、全国を大学を中心とする学区に分かち、公立学校の教職員給与費を全額国庫負担するというものであった。
 2度目は、岡野清豪文部大臣の下で作成され、昭和28(1953)年2月に国会に提出された義務教育学校職員法案である。この法案では、義務教育諸学校の教職員を全て国家公務員とし、その給与費は定員定額によって全額国庫負担とすることとされた。この法案は同年3月の衆議院の解散に伴い廃案となった。
 このように、全額国庫負担の構想は存在したが実現を見ることはなく、2分の1国庫負担の制度は今日まできわめて安定した制度として、その役割を果たしてきている。それは、結局2分の1という定率で国が負担することにより、いわば都道府県との「割り勘」で必要な義務教育費の全額を保障する制度だからである。義務教育の財源保障と地方間財政調整とをきちんと区別するためには、やはり本来全額国庫負担こそが望ましいと考えられる。
 それは、三位一体の改革という今日的課題に照らして考えた場合、地方交付税制度から財源保障機能を分離し、財政調整制度に純化することによって、地方財政の総務省への依存体質を払拭し、真の意味での地方財政の自立性を確立することに直結するものでもあるといえよう。
前川喜平〔(まえかわ・きへい)文部科学省初等中等教育企画課長〕


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